明日は良い日

毎日が日曜日……シンプルに晴耕雨読。

R君を偲ぶ

1998年、私はインターネットというものを知り、ホームページを立ち上げた。
なんの発信情報も持たない、ましてや50代の主婦がHPを開設するというのはかなり珍しいことだったが、いわゆるニックネームのような“ハンドルネーム”を使って交流を繰り返すうちに、同じ価値観や趣向の人と当たり前のように仲良くなり、ネット友達はどんどん増えていった。
インターネット世界の変化は凄まじく、HPは簡単便利な“ブログ”にとって変わられ、私自身もブログに転換し、今日に至る。
そして、ネット遊びは日々の暮らしに必要不可欠なアイテムになっている。



そのインターネットの世界に導いてくれたのが、当時同僚のR君で、私は数年前に発症した慢性関節リウマチの治療がまだ落ち着いておらず、将来は不自由な身体での暮らしを強いられるのだろうと、不安をつのらせていた頃だった。
そんな私に彼は言った。
「パソコンを覚えましょう、そしてインターネットを始めましょう。HPを作りましょうよ。そうすれば、万が一身体が思うように動かなくなったとしても、居ながらにして世界中の人たちと交流できますよ」
と。



無謀にもその言葉に乗せられ、1998年5月、まずはマシン選びから、私のインターネット遊びはスタートを切った。
当時はインターネットを繋ぐモデムや写真を取り込むスキャナー、パソコンの中の情報を印刷するプリンターなど、全ての機器を別に購入して取り付けなければならず、彼と共に秋葉原まで買いに行った。業者に数万円を払ってやってもらうそれぞれの機器をパソコンに連動させる、複雑怪奇・煩雑極まりない設定も、R君が全てやってくれた。


それからの私の奮闘は自分でも驚く凄まじさで、11月には早くもHPを開設、そこから始まったインターネット交流は日々を劇的に変化させ、私はネット遊びをどんどん高じさせていった。R君はそんな私に目を丸くしていたが、ネットエチケットやネットの怖さなどを折りに触れ厳しく教えてくれたし、無防備なおばさんをしっかりと見守ることを忘れはしなかった。


その後、時の流れの中で会社が倒産したり、互いの生活の変化で徐々に交流は薄くなり、いつしかフェイスブックでの友達つながりだけになっていった。



そのフェイスブックから彼の誕生日の通知が届き、1年ぶりに覗いたのが昨年12月。
あるミュージシャンが亡くなり、追悼のライヴがあったらしい。ハッピーバースデーの書き込みも3~4件。が、さらにスクロールしていって我が目を疑った。「息子が亡くなった」という、彼のお父さんの書き込みがあったから。
しかも1年半も前に………。
よくよく見直せば、誕生日の書き込みは彼の親しかった音楽仲間達が、いなくなった後も彼を偲んで書き込んだものだったし、ライヴは彼を偲んで音楽仲間達が開催したものだった。


今年もR君の誕生日がやってきた。
彼は私の娘と同年代。
若すぎる、早すぎる、何でそんなに慌てたの?


でも、パソコンでのやり取りはあっても12~13年近くは会うこともなかったからか、訃報の衝撃から落ち着きを取り戻した今、彼の住んでいたあの街に行けば(R君宅にも2度ほどお邪魔している)、変わらずに居てくれるような気がしてならない。


R君は今も私の中に居る。
これから先もずっと………。

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